マイリバー Vol.6(加古川支流「ごかのい川」/足立崇博)

 

   加古川支流「ごかのい川」  足立崇博

   僕にとってのマイリバーは、たくさんありますが、その中でも一番大切な川は記憶の中に残っている昔の「ごかのい川」です。
  「ごかのい川」は、兵庫県の1級河川加古川の中流域にある農業用の小さな川でした。25年ほど前の当時は、川自体、主に泥と砂利と植物でできていて、深さも水際の地形も変化に富んでいました。たしか、水際の盛土の部分には生き物(ザリガニ等)がつくったと思われるたくさんの穴があいていて、川べりには、オギかヨシがよく茂っていました。   生き物もたくさんいました。マブナ、ヘラブナ、コイ、ニゴイ、オイカワ、アユ、モロコ、ハス、カマツカ、ギギ、ウナギ、ナマズ、ライギョ、ドジョウ、モクズガニ、アメリカザリガニ、ヒキガエル、ヘビなどなど。たくさんの種類と数の生き物がそこに棲んでいました。
  僕はこの川で、小学校の頃、毎日のように遊びました。魚とり、秘密の基地づくりなど、大好きな冒険ができる場所でした。川遊びが僕のライフワークで、いつも靴とズボンをビシャビシャにして、母を困らせていました。僕は「ごかのい川」に魔法をかけられたように本当に毎日といっていいほど通い続けました。ほんとうに川が僕の宝物でした。
  もちろん、危険もたくさんありました。大雨のあとのあふれんばかりに流れている水の勢いや渦を見るために覗きこみ、まっちゃちゃの濁流に吸い込まれそうになったり、また魚とり中に岸から急な落ち込みに足を滑らせ、深みにはまりパニックたりもしました。今思うと一番危なかったのは、金色の小さな魚(なぜかそう見えた)をみつけ、それをつかまえようと追っかけて、いつもは近づかない深みに進み、足をとられておぼれそうになったこと。でも自然はいつも僕に逃げ道を用意してくれていて、なんだかんだいいながらいつも笑って家に帰らせてくれました。
  また、川からたくさんのものをプレゼントされました。特に思い出すのは、田植えの時期に川の水がほとんどなくなり、川に無数のプールができる時期です。この時ばかりは、たくさんの子供たちが、プール状のたまりに入り、魚をとりまくりました。とんでもないほどの魚の数と種類に、子供ながらに驚かされ、この小さな川でもこんなにたくさんの生き物を育んでいるだなと実感し、その自然のふところの深さにただ感心するばかりでした。
  「ごかのい川」は、自然の怖さと恵みの両方を感じさせてくれる川でした。今の自分の内面を育ててくれた、大切な川でした。たぶん、今の自然観や死生観など、いろいろな価値観はこの川で生まれたのだと思います。
  しかし、そんな宝物の川も、なくなってしまうのは一瞬でした。僕が小学校5年生ぐらいの頃、河川改修が進み、僕が遊んでいた場所は、すべてコンクリートの三面張りになってしまいました。たくさんいた生き物もいなくなり、魚の種類は、フナかニゴイだけになりました。僕の秘密の基地もなくなり、楽しい僕の川がただの水路になってしまいました。
  あと言い忘れましたが、「ごかのい川」には、親に怒られたときや気に入らないことがあったときも、一人で行ってました。そんなときは、ただ、川に石をなげるとか、ただ、眺めているだけで気持ちが晴れていたような気がします。
  今、僕の川とのつきあいは、カヌーや沢登りなど遊びを通してなんとか続いています。まだ日本にはいろんないい川(僕にとって)が残っていると思っています。そんないい川で自分自身がずっと遊び続けたいと思っています。正直にいってしまうと、ただそれだけです。
  僕の沢登りの師匠がよく口にする言葉で『天は自らを助くるものを助く。』という言葉があります。川も自然も人生においても、この言葉があてはまるような気がしてます。
あっ、それから、もう一つ本流加古川の思い出で、ある夏の昼下がり、ヨシ原を分け入ってでた川辺で、自分ぐらいの大きさの犬の白骨死体と出会いました。一つも骨が崩れることなく、完成された自然物として、白く輝いて、そこに"在り"ました。とても美しく思いました。おそらく、川に流されて、たまたまその岸辺にたどり着き、自然に浄化していったのでしょう。今から思うと当時の加古川もまだ自然の川として残っていたのだと思います。犬の死体を運び流れつかせる空間がそこにあり、ゆっくりと自然の中で浄化する時間がそこにあったのだと思います。それが本当の自然なのかなと、今この文章を書きながらしみじみ思い出しています。

長々とすみません。次は中山香代子さんにお願いしようと思います。

(澤井河川塾通信Vol.038掲載H15.12.12)

 

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