マイリバー Vol.8(川の記憶〜名も無い川〜/西河嗣郎)

 

  昭和30年代に大阪の阿倍野の下町に生まれた私は、小学校からは開発の進みかけた尼崎市北部の新設学校(武庫東小学校)の真横に移り住んだ。その頃の尼崎は、社会の教科書などで全国的に地盤沈下・公害で有名な町になりつつある最中で、武庫之郷の田園の中に出来た新設学校はその周りが新興住宅地として段々に住宅が増えていった。その為空き地も多く、各所に積み上げられた建設資材置場が我々の格好の遊び場であり、基地であった。 

 小学校から中学校時代世の中の生活様式の変化もまた、これまでの経験の中で非常に激しかった時代であった。カラーテレビの登場、洗濯板と手回しの脱水装置が付いた洗濯機が2槽式洗濯機へ、ソノシートを聴いたポータブルプレーヤーがキャビネット型のステレオへ、フィリップスが開発したカセットテープレコーダーを真似て国産のプレーヤーが出だしたのもこの頃だ。 

 そんな時代の尼崎にも近所に遊べる川があった。伏せ越しで交差する川もあった。小学校高学年の頃、家の前の池が埋め立てられ、新たな開発地となる時、無数のドジョウが残りわずかな水面へと追いやられ悲鳴と共に埋められて池の周りには三面張りの川が出来た。近所の川では、よく魚など捕っていたと思うが何を捕っていたのか思い出せない。恐らくフナ、メダカ、ザリガニ、カエルなどであろう。水草がゆらゆらと揺れるそのような川も幾つかあったが、時と共に段々と埋められ、未だに記憶にあるのは、水の無い川で遊んでいたら急に上流から水がどんと押し寄せてきたこと。(多分、田圃に水を送るためか。) 身近にある川はまた、しょっちゅう溢れてもいた。地道に接する川は雨が降るとどこが道でどこが川かわからない。結構大きくなるまで長靴を履いていたが、それが楽しく雨が降ると家に帰るのがいつも遅かった。 

 中学生時分になると近所の武庫川にもよく行った。昭和40年代は既に汚濁しており、とう とうと流れる川の風景は最早無く、どの堰や瀬も汚く泡立っていて、高水敷以外水面に降りることはついに無かった。

 水辺の様子に関心を持った最近になって、やっと自分の遊んだ川が武庫川の六樋からの用水路であったこと、流末が西富松排水路を経てよく話題になる淀川水系庄下川であることを、ホタルのイベントで初めて知った。 

 小さい体で、春の小川と思っていたのは名も無い農業用の水路だった。それが私のマイリバーである。 

 20年ほど前に堺市に入り、農政部では多くの素掘りの水路を三面張りに、下水道部では水路を都市下水路に、河川課では垂直の護岸整備を、極めつけは幹線水路の雨水調整池として溜め池の底にコンクリートを全面敷き詰めた。ようやく最近になって異様を感じるようになったが、そう思っているのはまだ極僅かである。水辺再生事業のために月に2度は水質の調査を行う「ふるさとの川」土居川もまた、愛着のある川になった。 

 高野辰之の「故郷」に目を閉じれば、学生時代を過した松江、親父の故郷彦根、妻の故郷野沢温泉、人それぞれにそれぞれの時代、それぞれの場所の風景が残っている。                                                  

次回は、遠藤尚美さんのマイリバー紹介です。お楽しみに。

(澤井河川塾通信Vol.040掲載H16.3.8)

 

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